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中国茶文化在日本 -『茶経』と『喫茶養生記』の              比較研究-

中国茶文化在日本 -『茶経』と『喫茶養生記』の              比較研究-. 0112068 杉山仁美. 目次. はじめに 第1章 中国茶はどのようにして日本へ伝わっ    たか(第1節~第5節) 第2章 『茶経』と『喫茶養生記』の比較研究 おわりに 参考文献. はじめに. テーマを選んだ理由   ①元々、茶を好んで飲んでいた。   ②1回生の時のゼミの班で中国の担当になった。 中国で連想できるものが「茶」であったのでそれをテーマに決めた。 第1章、第2章、おわりにという構成になっている。. 第1章 中国茶はどのようにして    日本へ伝わってきたのか.

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  1. 中国茶文化在日本-『茶経』と『喫茶養生記』の             比較研究-中国茶文化在日本-『茶経』と『喫茶養生記』の             比較研究- 0112068 杉山仁美

  2. 目次 はじめに 第1章 中国茶はどのようにして日本へ伝わっ    たか(第1節~第5節) 第2章 『茶経』と『喫茶養生記』の比較研究 おわりに 参考文献

  3. はじめに • テーマを選んだ理由   ①元々、茶を好んで飲んでいた。   ②1回生の時のゼミの班で中国の担当になった。 • 中国で連想できるものが「茶」であったのでそれをテーマに決めた。 • 第1章、第2章、おわりにという構成になっている。

  4. 第1章 中国茶はどのようにして    日本へ伝わってきたのか第1章 中国茶はどのようにして    日本へ伝わってきたのか • 第1節 飲茶の中国から日本への渡来 • 第2節 栄西による中国から日本への茶の渡来 • 第3節 鎌倉・南北朝・室町時代の茶 • 第4節 隠元の渡来 • 第5節 中国茶の日本への普及

  5. 第1節 飲茶の中国から           日本への渡来第1節 飲茶の中国から           日本への渡来 • 嵯峨天皇は弘仁6年(西暦815年)4月に韓崎の梵釈寺で初めてお茶を召し上がった。 • その茶を知る手がかりに『凌雲集』の中に「夏日左大将軍藤冬嗣閑居院 」と題する詩がある。又、『文華秀麗集』の「夏日左大将軍藤原朝臣閑院納涼 」という詩がある。2首の内容から、嵯峨天皇が召し上がった茶は『茶経』のものと同様に考えられる。

  6. 第2節 栄西による中国から        日本への茶の渡来第2節 栄西による中国から        日本への茶の渡来 • 嵯峨・淳和天皇(西暦814年)の頃、喫茶は国風文化の時代に移行していった。その後、再び喫茶が現れるのは1191年に栄西が中国から茶種を持ち帰って背振山(佐賀県)に植えてからである。 • その茶樹が栂尾(京都市右京区)に移植され、明恵上人に贈られた。栂尾が今日の我が国各地の茶園の基礎となった。

  7. 第3節 鎌倉・南北朝・室町時代                 の茶第3節 鎌倉・南北朝・室町時代                 の茶 • 僧である、蘭渓道隆、無学祖元は南宋から日本へ渡来し、臨済禅が普及した。これらの禅僧が当時の南宋の茶を直接伝えていた。 • 日本僧の南浦紹明は、1259年に入宋し、径山興聖万寿禅寺の虚堂智愚の方を説き、径山寺から台子が天龍寺(京都市嵯峨)の夢窓疎石に渡り、点茶に用いられ、茶式を定めたと伝えられる事も注目されている。

  8. 第4節 隠元の渡来 • 江戸時代の四代将軍家綱の時、福建省福清県の黄檗山萬福寺から来朝した隠元は飲茶の愛好家で、座右で用いた宜興罐(急須)が今も残っている。 • これは明の万暦時代(1573~1620年)の茶書である『茶疏』などに明らかである。

  9. 第5節 中国茶の日本への普及 • 12世紀末、栄西は中国から茶種を持ち帰って飲茶を再興し、『喫茶養生記』を著わし、飲茶を普及させた。 • 明治以後、一般大衆の飲茶は煎茶と番茶と食後の茶として漸次滲透していった。ここ20年程度では烏龍茶が普及し、台湾からの輸入量が紅茶の全輸入量を上回るという変化が起こった。

  10. 第2章① 『茶経』と『喫茶養生記』            の比較研究第2章① 『茶経』と『喫茶養生記』            の比較研究 • 『茶経』→唐の陸羽が著わした茶の専門書      のこと。一之源・二之具・三之造・      四之器・五之煮・六之飲・七の事・      八之出・九之略・十之図の10部       構成である。 • オール・アバウト・ティーの構成を持ち、茶の聖典にふさわしく、茶についての体系的著述をしている。

  11. 第2章② • 『喫茶養生記』→栄西が1211年に記したもの。上           巻「五臓和合門」と下巻「遺除            鬼魅門」の2巻から成る。 • 『茶経』の陸羽の言葉に「茶性儉不宜廣」とある。又、「茶宜精行儉徳之人」とある。栄西の『喫茶養生記』には「茶也、末代養生の仙薬、人論延齢之妙術也。」と述べ、医薬的効果を持つものだと捉えている。

  12. 第2章③ • 前述の陸羽が「茶性儉不宜廣」と言っていた理由は、「茶之爲 用、味至寒、爲飲最宜、精行儉徳之人。」ということだからである。 • 薬効がある、すなわち、『茶経』の中でも『喫茶養生記』と同様に、「茶は薬」として捉えていることが分かる。

  13. おわりに① • 『茶経』と『喫茶養生記』の一番の違い   →茶をどのようなものとして捉えているか。  ①『茶経』→初めは「茶は薬」という捉え方         をしていた。しかし、後に「茶は         健康飲料的役割」だと捉えてい        る。  ②『喫茶養生記』→「茶は医薬的効果を果た            すもの」だという捉え方を            している。

  14. おわりに② • 『喫茶養生記』では“茶経曰く”という語が幾度も使われている。理由は、『茶経』を参考にして書いたものだからである。 →『喫茶養生記』は『茶経』の後に作成さ   れたもの。

  15. 参考文献 • 布目潮渢 『中国茶文化と日本』(及古選書21)        及古書院(1998年)                  ※P273~278 • 布目潮渢 『中国 名茶紀行』(新潮選書)           新潮社(1991年)          ※P59~78、P202~203 • 林左馬衛・安井香山 『茶経』(中国古典新書)              明徳出版社(1974年)               ※P63、P149、P155、P177

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