高山彦九郎関連史跡マップ
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高山彦九郎関連史跡マップ 太田市全図 丸山詳細 本町詳細 細谷詳細 平成24年6月30日 説明文 正田 喜久 作成 佐々木 篤
細谷 詳細 4 1 3 2 5
本町 詳細 8 7 元 太田駅
丸山 詳細 丸山宿交差点 6
細谷地区1 1:高山彦九郎記念館 平成9年5月8日に生誕250年を迎えるに当たり、太田市が国指定史跡地に隣接して平成8年5月3日に開館した人物記念館である。市民が彦九郎の生涯と旅を追体験し、生涯学習の場とするため「出生と郷土の歴史風土」「思想・学問の形成」「服喪の実践と人間的魅力」「旅の足跡」「人々との交流」「京の彦九郎」「旅の終焉とその謎」「その後の顛末」をテーマに、旅道具、書簡、日記、などのほか、交友した人々の人物と、映像などを利用した展示になっている。入口東側の石碑は、生誕260年と高山彦九郎研究会創立10周年を記念に建てられた歌碑である。現在、太田行政サポーターズが館内の案内と解説を行っている。 2:旧宅 記念館の隣接東が宗家蓮沼家で、そのすぐ東が彦九郎の生誕屋敷跡である。現在、山茶花の垣根に囲まれて全面畑になっており、井戸跡と西側の小さい堀のみが当時の面影を残している。当時彦九郎が住んでいた建物は、彦九郎自刃後に兄専蔵により取り壊されたといわれている。細谷高山家は、彦九郎祖父貞正が母ゑんの生家の高山姓を遺すために蓮沼家から分家して創設した家系である。宅跡は遺髪塚とともに昭和6年11月26日に国史跡の指定を受けた。 3:遺髪塚 彦九郎は寛政5年(1793)6月27日に筑後国御井郡櫛原村(現在福岡県久留米市櫛原町)の医師森嘉膳宅で自刃して翌朝絶命した。その遺髪は最初森宅の庭に仮埋葬された後、地元の真言宗光明山遍照院に移されて埋葬された。戒名は松蔭以白居士で、森家の宅跡に明治44年に土饅頭を造り、そこに「高山彦九郎先生終焉の地」の碑が建てられた。 記念館のすぐ西の蓮沼家の墓地には、明治25年11月彦九郎没後百年忌に玄孫高山守四郎が建てた遺髪塚と方柱石碑がある。それ以前の墓地の状況については不明であるが、万延元年(1860)9月13日に高杉晋作、文久2年(1862)12月23日に久坂玄瑞と中岡慎太郎などが墓を訪ねている。墓地入口北側には、昭和20年に建碑された高山彦九郎の画像と、ジャーナリストで歴史家徳富蘇峰画賛のある石碑がある。また、墓地のすぐ南(現在は住宅地)には、天明6年(1786)8月24日に祖母りんが亡くなったので、3年間喪に服した喪室跡や北側には身を清めた合川がある。
細谷地区 2 4:教王寺 記念館の西北にある高山家の菩提寺が真言宗如意山惣持院教王寺である。この寺の創建には諸説があるが、寺伝によると正長2年(1429)に金山城主横瀬国繁(中興開基ともいわれる)が天下泰平・国家安寧の祈願所として名僧良賢和尚を招いて建立したという。江戸時代は寺中10宇・末寺5宇・門徒35宇・門葉37寺あり、約100か寺の触頭としての寺格をもった古刹である。この寺に、延享5年(1748)に祖父貞正が寄進した梵鐘と明和3年(1766)に貞正が没したので、祖母りんがその供養のために寄進した半鐘が遺されている。 5:冠稲荷神社 細谷村の鎮守である稲荷神社は新田氏始祖新田義重の父義国が一族の守り神として天治2年(1125)に創建したといい、主祭神は宇迦之御魂神で生命力や食料を司る神だが、現在は五穀豊穣・厄除け・商売繁盛など、日常生活を支える神として広く信仰を集めている。また、日本稲荷七社の一社に数えられている。「冠稲荷」の由来は、奥州下向の途中にこの神社に立ち寄った源義経が烏帽子の中に奉載していた伏見稲荷大明神のご分霊を納めたことや新田義貞が鎌倉幕府討伐の兵をあげた際に、この神社前で兜の中に神霊の来臨を請う札を入れ、戦勝を祈願したことによるといい、義貞は討伐できたのは神威の加護によったとして重箱獅子を奉納し、モクセイ一株を植えて記念とし、また、神領等を寄進したという。現在の本殿は元禄3年(1690)に再建されたもので、元禄文化の粋を集めた壮麗な三手先造りである。拝殿は寛政11年(1799)の造営で、周囲には算額・俳額・絵馬が掲げられている。これらの南東には安政4年(1857)造営の名工弥勒寺音次郎・音八父子による豪華な聖天宮がある。前方には樹齢3・400年といわれる県指定天然記念物の「ぼけ」の木があり、社務所前には彦九郎自刃後に移築したという松がある。神社の南方には蛇川にかかる御手洗橋、東の福沢橋の欄干に彦九郎の半身レリーフ像、また、太田市立沢野小学校の玄関に新田義貞像と並んで彦九郎半身レリーフ像がかけられている。
6:丸山宿の辻の碑 彦九郎は安永4年(1775)7月29日の「忍山湯旅の記」と安永8年(1779)7月7日の「小俣行」に、山田郡丸山宿(現在の太田市丸山町)のようすを描写した記事を載せている。現在、青木益夫氏宅の南東かどの辻(旧桐生街道)に、青木氏が掲げた日記の一部を記した「辻の碑」がある。 丸山地区 7:高山神社 彦九郎を祭神とする高山神社は、太田市立太田小学校の北にある天神山(海抜55m)の山頂にある。明治11年1月彦九郎の遺品収集家信州小県郡本海野の矢嶋吉太郎行康をはじめ、彦九郎を慕い勤王の志が厚かった地元太田町や県内外の有志が県に神社の創建願いを提出した。その結果、同年3月に内務大臣大久保利通の指令により、群馬県令楫取素彦は神社の創建を許可した。これに併せて宮内省から建設資金800円、各宮家から200円をはじめ皇族や一般の人々から浄財の下付や寄付が寄せられ、また、官有地約5900㎡の無償払下げと私有地の寄付が寄せられた。こうして天神山中腹(現在の社務所地)に明治12年末本殿間口6尺、奥行5尺、拝殿間口3間、奥行2間の神社が完成し、同年11月15日に祭主の東京の官幣大社氷川神社宮司他県内外宮司14名の祭官によって鎮座式が挙行された。翌16日の祭典には県令以下の官民も参列し、太田町では空前の大盛儀となった。なお、正面の「高山神社」という扁額は、戊辰戦争の東征軍大総督有栖川熾仁親王の揮毫であった。昭和13年には社格が県社に指定された。しかし、この神社はいかにも小さく貧弱であり、雨漏りがするようになったので地元の有志によって敷地の拡張と社殿の改築が計画された。そこで大正14年に県に社殿改築願いを提出し、それが10月に許可が下りた。しかし、大正12年9月1日の関東大震災もあり、浄財が集まらずにすぐには着手されなかった。その後の昭和4年に天神山の山頂の御料地2町5反歩が宮内庁から下賜されたことから改築の機運が起こり、県内外の官民の浄財も集まって改築を行うことになった。昭和5年10月1日に起工式を行い、翌年11月に天神山山頂に基礎は花崗岩、屋根は銅葺きの本殿5坪、拝殿28坪の桃山風神明造の現高山神社が落成した。このほか祝詞社と新饌所が併置され、昭和7年3月14日に遷宮祭が挙行された。表参道は3間幅の石段で、最下段からは205段あり、扁額は梨木宮殿下の揮毫である。なお、旧社殿は太田市別所町の十二所神社の拝殿になった。境内には昭和13年に右翼の巨頭頭山満の揮毫である「至忠至孝」、徳富蘇峰の賛、彦九郎自筆の和歌「われをわれとしろしめすそや、皇の玉のみこえのかかるうれしさ」が刻された石碑が建てられた。また、昭和17年には県知事が会長とした「高山彦九郎先生遺徳顕彰会」が発足し、その顕彰事業として社務所・水屋・玉垣・大灯篭が建てられた。さらに翌年の没後150年祭の折に、第6代太田町町長で高山彦九郎奉賛会の会長であった樋口隆次郎が社務所東方に「由緒之碑」を建てた。社宝は彦九郎の置手紙・笏・櫛・陶器水注(水差し)・土器盃と木盃・烏帽子・沓・遺髪(前髪)、書簡2通であり、これらは平成15年6月に高山彦九郎記念館に寄託された。 本町地区 8:私人作成の彦九郎レリーフ 太田市本町と八幡町の間を流れる八瀬川の東側に、彦九郎の半身を描いた壁絵が塀に掲げられている。