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4 ・猫食と自文化中心主義. 2011.10.12. 帝京・文化人類学 Ⅱ. 映像資料:広州市場. 市場ではねこが食用として売られてい た ということは、 必然的に「ねこを食べるという〈異文化 〉 」がそこに存在することになるが、それについてどう思うか 自分 のスタンスについて また、この講義を受けている他の人々はどう考えていると思うか 他人 の スタンスに ついて. 自分は「猫食文化」をどう思うか. 否定派・中間派・肯定派. ほかの人はどう思っ た と思うか (1). 自分を多数派と思うか、少数派と思うか?. ほかの人はどう思ったと思うか (2).
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4・猫食と自文化中心主義 2011.10.12. 帝京・文化人類学Ⅱ
4・猫食と自文化中心主義 映像資料:広州市場 • 市場ではねこが食用として売られていた • ということは、必然的に「ねこを食べるという〈異文化〉」がそこに存在することになるが、それについてどう思うか • 自分のスタンスについて • また、この講義を受けている他の人々はどう考えていると思うか • 他人のスタンスについて
4・猫食と自文化中心主義 自分は「猫食文化」をどう思うか
4・猫食と自文化中心主義 否定派・中間派・肯定派
4・猫食と自文化中心主義 ほかの人はどう思ったと思うか(1)
4・猫食と自文化中心主義 自分を多数派と思うか、少数派と思うか?
4・猫食と自文化中心主義 ほかの人はどう思ったと思うか(2)
4・猫食と自文化中心主義 自分を中心に考えてしまうこと • 「日本人の感覚からすると、ねこはペットであって、食べるものではない」→「ヘンな食文化だ」 • 土を食べる民族もいれば、カブトムシの幼虫をごちそうとする民族もいるし、豚の血液をおいしいとする民族もいる • が、大事なのは、絶対的に・誰から見ても「変わっている」食物・食文化というのはない、ということ • 「ヘンな食文化」という考え方の裏には「自分たちはヘンじゃない」という前提がある • これは、日本人だけでなく、世界のひとびとに共通する普遍的な考え方=自文化中心主義 ethno-centrism • 「異文化理解」においては自文化中心主義はとても厄介
4・猫食と自文化中心主義 [再]異文化接触・異文化理解の問題 • 自分たちとかなり・全く異なる文化と接した場合、 • 「わたしたちとは違うけれども、それをとやかくいうことはできない」「あれはあれでありだろう」は、果たして異文化理解のスタンスとして適当なのか? • それは「わかったふり」をしているだけで、実はそれ以上の理解を拒絶・否定している可能性はないか? • あるいは、すべて受け入れて、自分たちも同じようにふるまえば理解したといえるのだろうか? • 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか?
4・猫食と自文化中心主義 [再]猫食をめぐって • まず大事な点は、1から6までのスタンスに、善悪が存在するわけでは「ない」、という点(真剣に考えて出た答えであるかぎり、どれも正当である) • 次に重要なのは、「1 絶対に許せない」から「6 自分も食べた」へと順々に進みさえすれば、他者理解が実現するわけでも「ない」という点(「食べたらわかる」などということはない) • ねこが広州市場で食用として売られているのをみて、中国の文化を否定してしまうのは短絡的である • ねこを食べるのが中国国内のどのような人々であるのかわかっているだろうか? (部分→全体への安易な拡大) • ねこを食べる理由が、たとえば非常に人道的な目的であったりする可能性を考慮しただろうか? (行為の背景にある文脈の無視)
4・猫食と自文化中心主義 異文化理解とはどういうことか?-中括 • 中国における猫食の背景 • まず、全員が食べるわけではもちろんない • 全ての中国国民に「ペット」という感覚が欠如しているわけでもない • 猫<虎(あるいは蛇<龍)という比喩的関係 • 同様の事例は、他にもないだろうか? • 韓国における犬食 • 日本におけるうなぎ食 • 猫食の背景を知っての「翻訳」と知らないでの「翻訳」は意味が違うし、当然「理解」にも差がでる • 異文化理解とは、そうした「文化の背景・理由・詳細について知る(知ろうとする)こと」である
4・猫食と自文化中心主義 自文化中心主義/文化相対主義 • 自文化中心主義とは、自分の文化の基準で周囲をはかり、自分と異なる点について、ヘンだ・おかしい・間違っている・劣っている・遅れている、などと判断する立場 • それだけ聞くと、ずいぶんよくないスタンスのようだが、ひとは誰でも成長過程で「自分の文化」を形づくっている以上、完全にこの見方を排除することは極めて難しい • 文化相対主義とは、相手の文化も自文化同様しっかりとした「体系」を持っており、そのひとびとの間で共有・学習され、継承・ブラッシュアップされてきたものであるから、互いに尊重されあうべきものだ、と考える立場 • それだけ聞くと、とてもすばらしいスタンスだが、これを実現するためには、i. 相手の文化を(コミュニケーションを重ねた上で)きちんと認める、ii. 自文化を相対化・客観視(3次元的に眺める)する、iii. 全体の中での位置を(自他ともに)把握することが必要であり、なかなか簡単に成し遂げられるものでもない
語 内容A 内容B A B 4・猫食と自文化中心主義 「真の異文化理解」の不可能性(1) • ねこ食の話から異文化理解とは「その文化の背景/理由/過程について〈知る・知ろうとする〉」ことと述べた • 知るためには、コミュニケーションと言語が不可欠 • ところが、言語を媒介とするかぎりは、言語自体のもつ制約によって、100%信頼できるコミュニケーションは行ない得ない • ある語が指す内容について、話者Aと話者Bが想定する内容が一致しているかどうかを確認する手段はない
4・猫食と自文化中心主義 「真の異文化理解」の不可能性(2) • 100%信頼できるコミュニケーションが成立しない以上、対話に基づいて得られる理解には、常に誤解がどこかには生じている • では、どうせ誤解があるなら、面倒な思いをして対話しなくてもいいのか? • だれかがそうしたスタンスをとることを止めることはできない(文化相対主義の限界) • だからといって、みんながみんな対話をやめてよいとも思えない……どうせ100点とれないから試験勉強はしない? 30点よりは50点がましだから、ちょっとでもがんばる? • 「理解できる」のではなく「理解しようとすることができる」だけだが、「理解しようとする」のとそれを放棄するのとの間には、大きな差がある
4・猫食と自文化中心主義 なぜ異文化を理解しなければならないのか • そのひとつの理由は「理解の相互性・相対性」に基づいている • 理解(≒知ること)がコミュニケーションに基づくのだとすると、その回路を一方的に閉ざすことは適切ではない • もうひとつの理由は「知らなくてもいいが、知っていればよりよいことがあり得る」という点 • たとえば「方言」という文化を共有できるケースとできないケース、どちらがよりシンパシーを得られるだろうか? • 結局のところ、異文化理解は、他人への理解・他人とのコミュニケーションと似た次元にある
4・猫食と自文化中心主義 異文化理解-まとめ(1) • 異文化理解とは「まあそれもありだろう」と認めることではない • 異文化理解とは「やってみること」でもない • 異文化理解とは、その行為や考え方の背景を理解することである • だから、ある意味、だれにでもできる(猫好きであっても猫食は「理解」できる) • 逆に、やろうと思わなければ、できない(簡単に流すことはできない) • 異文化理解は(基本的には)ことばやコミュニケーションを媒介として成り立つ • だから、100%完全に理解することはできない(言語の限界) • 自分のことば・自分の文化は、役立つとも言えるし、邪魔になるとも言える(基準点としての自文化 vs自文化中心主義)
4・猫食と自文化中心主義 異文化理解-まとめ(2) • 異文化理解とは、つまるところ、全然知らない「異文化」に対して働きかける不断のプロセスである • 全然知らない0の状態から、実現不可能な理想の100の状態をめざして、0よりは10、10よりは30……の理解を続けていこうとするひとつの〈プロセス〉である • 「理解しよう」という動的 dynamic な〈プロセス〉であって、「理解した」という静的 static な〈状態〉ではない • 異文化理解は、個人としての他人の理解と似通ったものとしてとらえて、ほぼさしつかえない • 他人を理解することは必要か? 他人を理解することは可能か? という問いに対して、個々人がどういうスタンスをとるのか、という問題と、本質は同じである