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再臨主の路程

再臨主の路程. (1920年~1952年). 1 レベル3. メシヤの再臨摂理. メシヤという言葉は、ヘブライ語で油を注がれた人、特に王を意味する言葉である。メシヤは神の救いの摂理の目的を完成するために、降臨しなければならない。. もし、イエスが十字架で死ななかったならば、イエスは霊肉両面の救いの摂理を完遂され、地上天国を建設されたはずであった 。 ユダヤ人たちがイエスを信じないで、十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害されたのである。そのためイエスを信じて、一体となった信徒の肉身も、同じようにサタンの侵入を受けるようになったのである。

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再臨主の路程

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Presentation Transcript


  1. 再臨主の路程 (1920年~1952年) 1 レベル3

  2. メシヤの再臨摂理 メシヤという言葉は、ヘブライ語で油を注がれた人、特に王を意味する言葉である。メシヤは神の救いの摂理の目的を完成するために、降臨しなければならない。 もし、イエスが十字架で死ななかったならば、イエスは霊肉両面の救いの摂理を完遂され、地上天国を建設されたはずであった 。 ユダヤ人たちがイエスを信じないで、十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害されたのである。そのためイエスを信じて、一体となった信徒の肉身も、同じようにサタンの侵入を受けるようになったのである。 イエスは十字架で清算できなかった原罪を贖って、肉的救い(真の愛の家庭/国家/世界)を完成し、霊肉ともの救いの摂理の目的を完遂なさるために、地上に再臨されなければならなくなったのである。

  3. メシヤの再臨摂理 イエスは将来、再臨されるときに起こる事柄を予想されながら、「人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」と言われたのであった。 再臨なさるときにもまた、初臨のときと同様、天だけを仰ぎ見ながらメシヤを待ち焦がれるであろうところのキリスト教信徒たちの前に、地上から誕生された身をもって現れるなら、再び彼らに異端者として追われ、苦しみを受けることが予想されたので、そのようにこの時代の人々から捨てられなければならないと言われたのであった。

  4. メシヤの再臨摂理 サウル王 ダビデ王 アブラハムモーセソロモン王マラキイエス 400400 120 400 210 400 エジプト苦役時代  士師時代 統一王国時代 南北王朝分立 ユダヤ民族捕虜   降臨準備 メ 1517 イエスアウグスチヌスチャールズ大帝ルター再臨主 400 400 120 400 210 400 ローマ迫害時代  教区長制  キリスト王国  東西王朝分立 教皇捕虜帰還    再降臨準備 メ 1517+400=1917~1930

  5. 再臨主誕生の摂理 国家的摂理 ●1919年3月1日(陰暦) 柳寛順(ユガンスン) 三・一独立運動(大  極旗)によって、日本の植民地(日帝40年)から韓国が一時的に   独立、再臨主の降臨摂理を可能にした。(サタンは再臨主を誕生させたくないので韓半島を主管下に置いていた) ●内村鑑三の再臨運動(1918~1919年日本中に再臨信仰の旋風 ) 世界的摂理 ●第1次世界大戦(1914~1918)がキリスト教国家(米英仏)が反キ リスト教国家(独オ土同盟国)に勝利→世界的長子権復帰(蘇生的)  →父母(メシヤ)復帰の基台 → 再臨メシヤ誕生  1917年ロシア革命(世界初の社会主義国家=サタン先行)  1920年1月 国際連盟(初めての世界政府の雛型)

  6. 再臨主誕生の摂理 東洋のジャンヌダルク柳寛順(1904~20)ら が三・一独立運動(万歳事件)をした10ヶ月後、 1920年1月6日(陰暦) 定州 文鮮明師が誕生(定州) ●主が来られる国家の条件 1.40数民族的蕩減復帰 2.祭物国家(神とサタンの一線) 3.神の心情の対象国家 4.文明の結実国家5.預言がある国家

  7. 定 州 平安北道定州郡徳彦面上思里(サンサリ)二二二一番地 文村(ムンソン)  父母は善良で情け深く、多くの難民が家に訪ねてきた。 文家の家訓  <家を訪ねてくる人には食事を与え、必要なお金も与えよ。> 三・一独立運動 文先生が母の胎内にいるころ、ふるさと定州はおびただしい流血の色に染まっていた。 定州はキリスト教の盛んな地域。三・一独立運動の激戦地。平安北道での集会数315回、51万2千人、死亡2042人、負傷3700人、逮捕者1万2千人流血の大惨事のあと、その年は大干ばつの被害が定州を狙い撃ちするかのように襲った。民族と故郷が苦難の真っ只中にあるとき、文先生は誕生された。母親(金慶継)は先生を胎内に宿しているこの期間、松ノ木の皮を削って飢えをしのいだ。文先生の大叔父である文潤國牧師は三・一独立運動で負傷・逮捕、出監後、生涯を韓国の独立運動に身を投じた。李承晩が大統領になったとき、二、三度ヘリコプターで大臣に招聘しようとしたが断った。1958年死去後、1977年大統領表彰、90年叙勲。 潤國氏を通して文鮮明先生が国家に影響を及ぼす道が準備されていた。

  8. 少年時代 自然を愛する 「私は幼い時、山に通いながら、花という花を調べてみました。知らない花がありません。家の裏の小山に行って、自然があまりにいいので家にも戻らず、日が沈むまで自然と交じわり歩き回って、疲れてうつぶして寝たところ、夜十二時になって、母と父が捜しに来て、連れていくことが多かったのです。自然をそのように好みました」 情の深さと悩み 「先生は貧しくて栄養失調になったかわいそうな人々のために、毎日20、30里(8キロから12キロ)の道のりを、池を捜し歩いて、蛙を捕らえては食べさせてあげました。先生は幼いころからかわいそうな人を見ると、そのままにしておけない性格なのです。今考えると、このような私の性格を神様が必要としたのです」 「また、少年時代から人生に関し、次のような、いろいろな基本的な問題などに対して悩み始めました。『私は誰であるか。私はどこから来たのか。人生の目的は何か。死んだのちに、私たちの生命はそのまま続くのか。また、神様は果たして存在されるのか。神様は全能であられるか、あるいは無力な存在であられるか。もし神様が全能であられるなら、神様はなぜ人類世界の問題を解決してくださらないのか。この地球上には、なぜ多くの苦痛が存在するのか』」

  9. 少年時代 最後までやり抜く性格 ‥鳥や魚などを取るだけではありません。その鳥は何を食べて活きているのか、どこに巣をつくってヒナを育てているのか、といったことを何日もかけて探して、見つけるまでは気がすまなかったのです。草も何百種類も採集して、どれが毒草でどれが薬草なのか、またその構造はどのようになっているのか、文少年は一生懸命に研究しました。自然は文少年にじつに多くのことを教えてくれた最良の教師でした。‥ 負けず嫌いと正義感 文少年の泣き方はじっと座って泣くのではありません。他の村に行って、号泣するのです。その泣き声があまりにも大きいので、眠っていた人は目を覚まし、老人たちは出てきて見物するほどでした。‥ 当時の田舎では、姓が異なる人から何か貸してほしいと懇願されても、貸してあげることはありませんでした。文少年はこうしたことに対しても、そのまま見過ごすことはありませんでした。村で子供が生まれたばかりの貧しい人がいれば、家の米を持っていってあげました。これをいさめる人がいれば、「私が間違ったことをしたのでしたら言って下さい。あなた方は一年も食べるものがあるではありませんか。産婦がご飯を食べられずにいるのに、それを見ていながら平気で眠れるような人は、この村から追い出さなければなりません」と叫んだのです。‥

  10. イエス・キリストとの出会い キリスト教にふれるようになって、心の中に芽生えてきた社会や人生に対する疑問を解決してくれる真理を知るためには神様に直接問うしかなかったので、 16歳(数え)の1935年4月17日、定州の生家から数キロほど離れたところにある猫頭山(ミョドウサン)で祈っていると、文少年の霊眼が突然開けてイエスキリストが現れた。 「イエス様は深遠な、また驚くべきことをたくさん語られ、苦しんでいる人類をご覧になり、神様が悲しんでおられると言われました。そして、自分が果たせなかった地上での使命を、私に成就してほしいと切々と話されたのです。」 文先生は何度も辞退をしましたが、イエス様は「この使命を達成できるのはあなたしかいない。」と告げられるのでした。その使命を果たすために、人間として考えられる最も悲惨で困難な道を、誰かが負わなければならないことを悟ったのでその天命を受ける覚悟をされた。

  11. イエス・キリストとの出会い 「私の前に現れた神様は、栄光に満ちた喜びの神様ではなく、恨と悲しみの心情をもたれた方でした。神様と出会うことによって、私は自分の置かれた悲劇的な環境が、神様に比べてあまりにも小さなことであると悟りました。」 文先生はこの日から今日に至るまで、ひとときも「神と人類の解放」という天命を忘れたことはありません。文少年の生活はこのイエス様との出会いの日から大きく変わりました。神のみ旨を成就するために、絶対的真理「原理」を解明する苦しい生涯がはじまったのです。 神の召命を受けた1935年から9年間について、文先生はこう語っておられます。「私はいつも全能な神様、そしてイエス様と共に暮らしていました。数回にわたって霊界に入ってみたことがあります。神様は少しずつ驚くべき真理を教えてくださったのです。」「宇宙の根本は何かと言う問題に対して、九年間も身もだえして解決しました。」「神様からの返事は、『父子の関係だ。父と息子だ』でした。結論がそれなのです。 「この哀れな民族をいったい誰が救い、その将来に対して責任を持つのか」 「私が戻ってくるまで、神様!この国を守ってください。」 → 日本へ留学

  12. 真理解明の路程 ソウルでの学生生活と日本留学期間の9年間で、統一原理の核心となる「人間の責任分担」「間接主管圏」などのみ言を命がけで闘い勝ち取られた。 宇宙と人間の創造における神様の喜びに満ちた心情と、人類始祖の堕落によってどれほど傷つき、悲しみを負われたかを知り、泣き続けました。長い年月を涙と嘆きのなかで人類を導いてこられた神様の苦痛の心情、イエス様が十字架にかけられていった無念さに対して、慰める言葉も無かったのでした。 帰国後、1944年警察の官憲から、独立運動のかどで極悪非道な拷問を受ける。

  13. 再臨主を迎える摂理 再臨主を迎える摂理 1945年 アダム エバ イエス 十字架 再臨主 堕落 ∥ 真の父母 真の父母 真の父母 神の血統へ サタンの血統 サタンの血統 子女 子女 子女 霊的救い 家庭、国、世界 家庭、国、世界 家庭、国、世界

  14. 再臨主を迎える摂理 ●再臨主(メシヤ)は真の父母として、神様の愛(真の愛)と生命(み言)と血統(祝福)を持ってこられる方である。 ●再臨主(真の父母)の使命は、原理を解明し全人類を神の血統に転換することと、神の主権を復帰することである。 ●歴史の目的は、メシヤ=真の父母を人類に送ること。即ち、子女である人間(人類)がいかに真の父母を迎えられるか。(メシヤのための基台) ●原理を解明された後、第2次世界大戦終了の1945年、再   臨主(文鮮明師)は国家的・世界的に準備された「メシヤの ための基台」を訪ねて行かれた。→イスラエル修道院(ソウル)

  15. 再臨主を迎える摂理 「先生が北側に行ったことは、サタンの本拠地に行ったということです。‥共産圏に死を覚悟して入っていったのです。怨讐の本拠地を訪ねて行ったのです。韓国キリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に帰してしまったがゆえに、それを取り戻すために、サタンの巣窟である北側に行ったのです。」 「出発する時、三十八度線を越えるのが難しいので、全部天が教えてくれるのです。‥‥三十八度線をどこから越えるか、直接案内を受けて北側に入ったのです。三十八度線を越える時、虹が前を導いてくれました。」 ピョンヤン ソウル イスラエル修道院での約半年間の摂理が失敗(洗礼ヨハネ的使命者金百文牧師は文青年がソロモン王であるとの啓示を無視してメシヤに従わなかった)→蕩減復帰のため一人北韓へ出発、1946年6月6日ピョンヤン(東洋のエルサレム)に到着、伝道開始。金元弼氏が伝道される。啓示を受けたキリスト教信徒が礼拝に集い、泣く教会と言われる。信者を奪われまいとするキリスト教会の迫害。 1946年8月11日共産党の告発でスパイ容疑で大同保安署に拘束。拷問を受ける。

  16. 再臨主を迎える摂理 腹中教:空中再臨ではなくお腹から主が誕生されるとして、祈祷と精誠で0歳からの服などをこしらえて主を迎える準備をした教団。 獄中での摂理 監獄で腹中教幹部たちに出会う。獄中の許孝彬(ホ ホビン)教祖が洗礼ヨハネの使命を果たせるようにと、ある方法で手紙を渡したが、再臨主を受け入れず。(後に共産党によって皆虐殺の結末に。)手紙が発覚して、文先生は激しい拷問を受ける。 46年11月21日半死半生の姿で釈放される。翌年奇跡的に回復。再び伝道を開始される。 「先生が共産党に捕らえられ、むちで打たれる時、そのむち打ちがとても激しかったのですが、踏ん張りながら、どんなに打たれても倒れないと決意しました。袋だたきになって、東西南北の12方位を全部打たれても、ひたすら無言で打たれなければならない時が、一度や二度ではありません。‥‥強く打つと肉をえぐってしまうのです。一編に、そこに血のあざがつくのです。‥‥1週間の間座って泣いたのちには、太陽の光が見られなかったのです。なぜでしょうか。神様がこのようにかわいそうであるのか、初めて知りました、歴史始って以来。先生は、それを知ったがゆえに、監獄で血を流して拷問を受け、死ぬようになる場でも、「神様、安心してください。私は弱い者ではなく、サタンのどんな威圧にも勝利できる男です。」と神様を慰労してあげたのです。」

  17. 「監獄に入ると、その婦人と相対になって、教育して、全体に責任をもっていた黄元信という人が、その部屋にいました。その時が一九四六年八月十一日ですが、十一時ごろに私が入ったのです。ところが、その翌朝、その人が私の所に来て、敬礼をしたのです。それで私がどうしてそうするのかと聞くと、「私は知っています。私は申し上げなければなりません」と言って、自分の集団に関するすべてのことを話すのです。「霊界から知らせてくれたので、この方だけには報告しなければならない」というのです。」「それで私は「これはあなたの責任だから、このように処理して、このようにして、許孝彬氏に早く出るように言いなさい」と言ったのです。出なければ、全部この監獄で倒れるというのです。それで黄元信が一人出たのです。その後、私が監獄から出たのちに訪ねてきたのです。訪ねてきて言うには、「信徒たち一同に、いくら勧告しても聞こうとしない」というのです。」「最後に、先生自身が一通の手紙を書きました。それは九月十八日の朝でした。先生は食事の時に、御飯を配る人に、その手紙を許夫人に渡してくれるように頼みました。彼女は、その手紙を読んでから破いてしまおうとしたのですが、その時、彼女は共産党の監視員に見つかってしまいました。それは、その紙を持っていってくれた人が、看守に知らせたためでした。それで先生は拷問を受けました。それは一九四六年九月十八日午後二時のことでした。」「その時、奥歯にひびが入ったのです。机の足に、打ちつけられたのです。何のスパイかというのです。その時逆さに倒れてこの歯が割れたのです。」「監獄に入ると、その婦人と相対になって、教育して、全体に責任をもっていた黄元信という人が、その部屋にいました。その時が一九四六年八月十一日ですが、十一時ごろに私が入ったのです。ところが、その翌朝、その人が私の所に来て、敬礼をしたのです。それで私がどうしてそうするのかと聞くと、「私は知っています。私は申し上げなければなりません」と言って、自分の集団に関するすべてのことを話すのです。「霊界から知らせてくれたので、この方だけには報告しなければならない」というのです。」「それで私は「これはあなたの責任だから、このように処理して、このようにして、許孝彬氏に早く出るように言いなさい」と言ったのです。出なければ、全部この監獄で倒れるというのです。それで黄元信が一人出たのです。その後、私が監獄から出たのちに訪ねてきたのです。訪ねてきて言うには、「信徒たち一同に、いくら勧告しても聞こうとしない」というのです。」「最後に、先生自身が一通の手紙を書きました。それは九月十八日の朝でした。先生は食事の時に、御飯を配る人に、その手紙を許夫人に渡してくれるように頼みました。彼女は、その手紙を読んでから破いてしまおうとしたのですが、その時、彼女は共産党の監視員に見つかってしまいました。それは、その紙を持っていってくれた人が、看守に知らせたためでした。それで先生は拷問を受けました。それは一九四六年九月十八日午後二時のことでした。」「その時、奥歯にひびが入ったのです。机の足に、打ちつけられたのです。何のスパイかというのです。その時逆さに倒れてこの歯が割れたのです。」

  18. 興南監獄の受難(十字架路程) フンナム ピョンヤン 二人の洗礼ヨハネ的人物の失敗によって、主は十字架へ。 1948年2月22日共産党の宗教抹殺政策によって拘束。過酷な取り調べ、拷問。5年の刑宣告。 「私がむちで打たれるのは、私のために打たれるのではなく、民族の為に打たれるのであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙だったのです。」 「服を脱げば、この道に乗り出してきて生じた傷跡が、何箇所もあるのです。それを眺める時、この傷跡は人類と天が私に与えた勲章であると思うのです。」 興南(フンナム)監獄へ移送。興南監獄で強制労働(肥料工場) 「(硫酸アンモニウムの)肥料の山を袋につめて運ぶ仕事。一組(10人)の一日の責任量は1300かますであって、8時間以内に終えなければ、食事が半分に減るようになっていました。」

  19. 興南監獄の受難 「先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、二年八ヵ月の間、重労働をしました。どんな労働だったかといえば、肥料工場の仕事でした。」 「それで共産党は彼らを、強制労働に動員させるのです。そして困難な労働でもって彼らが死ぬ時を待つのです。北韓で監獄にいる時、先生は強制労働収容所に閉じ込められました。金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を三年の間、困難な労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。」 「朝、労役に出発する時、監房からみな出てくるのです。広場に出て、不法な所持品がありはしないかと全部点検するのです。‥一里の道を行くのに一時間ないし一時間二十分かかるのです。それゆえに、御飯を食べてからすれば、二時間以上かかります。ですから労役に出発するには、普通、明け方四時半に起きて、九時に作業に就くようになるのです。‥頭がぐるぐる回って、立とうとすると立ち上がることができないのです。」 「行きながら何度も足が空を踏むのです。四キロメートルを歩いていくのに、足が空を、五、六回、ある時は十回以上も踏むのです。力が出ないのでそうなるのです。その足を引きずっていって仕事をするのです。先生はそのような歴史があるために、困難な時はいつもそれを考えます。」 「その肥料工場に行けば、アンモニアがコンベヤーを通って降りてきて、山のように積まれます。それは熱いものですが、時間が多く経過すると、溶けて、氷のように固まります。」

  20. 興南監獄の受難 「コンベヤーを通じて大きな広場の真ん中に積まれるのですが、その姿は正に滝のようです。滝の水が落ちるように、真っ白いものがざーっと落ちるのです。これは、高さが約二十メートルになります。そのような肥料の山があるのですが、それを袋に詰め込むのです。大きな広場に八百人、九百人が出て行いますが、大体、大きな山を二つに分けて置いたようです。」 「本当に骨の折れる重労働でした。一組の一日の責任量は千三百かますであって、八時間以内に終えなければ、食糧が半分に減るようになっていました。」「一組が十人なのですが、十人の責任量として、四十キロ入り、千三百かますをつくらなければなりません。」 「一日の責任量が一人当たり130個としたら、それは重労働です。一般社会の人は、70個、80個もできないのに、「倍の基準でしろ」と言うので、それは「死ね」と言うことと同じなのです。」 「体は硫酸で害を受けます。髪の毛が抜け、皮膚を絞ってみれば水が出てきます。六ヵ月が過ぎると、必ず喀血します。大概、肺病だと思って落胆するので、死んでしまいます。せいぜい一年半か二年しか耐えられません。」

  21. 興南監獄の受難 「肉が全部裂けて、骨が見えるほどになり、血が出るのです。それでも毎日のようにアンモニアの肥料を運んだのです。普通、制服は木綿のようなものだと一週間以内で全部ぼろぼろになります・そのような所で、半年ほど仕事をすれば、細胞がみな死んで、しぽると水が出るのです。」 「先生は、そのような仕事をするために生まれたのだと考えました。先生は常に、あたかも復帰摂理をするかのように、すべての心情とすべての誠意を、その仕事に注ぎました。‥先生は、休息時間を告げるベルが鳴っても、聞こえませんでした。」 「先生は、鉄筋のような男だ」というような言葉をたくさん聞きました。私が手をつける仕事は、本当に楽しくてするのです。誰よりも喜んでするのです。それだけであって、他のことはないのです。」「結局は、乗り切っていったのです。どんなに困難な監獄でも、貫いていかなければなりません。私はここで死んでも、「お前は負けずに勝って死んだ」という、そのような思想を残さなければならないと考えたのです。」 朴正華という人物が、夢で何度も「あの方が再臨主である」と教えられて文先生に侍るようになった。囚人の頭(総団長)である朴正華氏は、時々文先生に「私が話をすれば、そのような重労働をしないで楽に過ごせるようにして差し上げることができます。」と進言した。その度毎に先生は「私は獄中に於いても、(サタンに讒訴されないよに)最悪の獄中生活をしなければならない。」として最後まで受け入れず、その恐ろしい重労働を続けられた。

  22. 興南監獄の受難 「肥料の山をどんどん掘っていくために、遠くからそれを秤のある所まで運んで載せようとすれば、時間内に責任を果たせないのです。約四メートルくらい掘っていき、秤に一度上げようとすると五分以上かかるために、すぐにはできないのです。それゆえに、誰かが入っていって向こう側に投げなけれぱならないのですが、そんな骨の折れることを誰がしますか。それで、先生がそれに責任をもったのです。」 「数カ月後、先生は最高の労働者と称されました。班員たちは、脱出の陰謀を企てないように毎日替わりました。班が替わる時、すべての囚人たちは、その最高の労働者がいる所に来ることを願いました。先生の後ろには多くの人たちがいました。」「それで毎年、(共産党から)模範労働者賞をもらいました。」 「一日にくれる御飯は、小さな茶わんで一・七杯ぐらいです。おかずは何もなくて、汁は味噌汁ではなく塩水です。それを食べて八時間労働をするのです。食べるものが少なくて、大きい口なら三口で終わってしまいます。汁として、大根の葉と塩を入れたものをくれます。それがすべてです。」

  23. 興南監獄の受難 愛の実践によって生きる 「そうして御飯茶わんを受け取るや否や、無意識のうちに御飯を口の中にほうり込みます。自分が食べたということを忘れてしまい、ほかの人が御飯茶わんを受け取るのを見て、自分の御飯茶碗が空になっているのに気がつきます。それで時々、隣の人とけんかをしたりします。「お前が私の御飯を食べただろう!」と言うのです。」「御飯を自分の口の中にほうり込んだところ、のどが詰まってすぐに死んでしまった人もたくさんいました。一人の囚人が、自分の御飯を全部食べる前に死ぬと、他の人々が、その死んだ人の口から御飯粒を取り出して食べるために争います。」 「先生がそのような環境の中で、どのように生き残ることができたのでしょうか。先生は精神力の重要性を知りました。先生は精神的に、特別な決心をしました。それで先生は「先生が食べる食事の半分でも生きられる」と、心に確信をもちました。それでその次の日から、先生は他の人たちに先生の食事の半分を与えることを始めました。それを三週間続けました。先生は「半分の食事を食べても、作業量を完遂できる」と確信するようになりました。その時から先生は、先生に分け与えられた食事をすべて食べるようにしました。そして「先生の食事は半分で、残りの半分は神様によって与えられたおまけだ」と考えました。」

  24. 興南監獄の受難 「ひもじい時の御飯一粒がどれほど貴いものか、今でもはっと我に返ります。御飯一粒が、それほどまで全神経を刺激できるのかということ感じ、それに対する無限の価値を感じることができました。腹が減って、御飯を恋しがりつつも、それを忘れようと努めながら、神様をより一層恋しがろうと、涙を流しました。」 「私は今でも、おかずなしで御飯をよく食べます。おかずなしのただの御飯の味を知るところにおいては、統一教会の文先生が「王」です。」 「一番苦労することが何かといえば、見つからずに起きることです。見つかった日には、制裁を受けるのです。寝る時間がはっきり決まっているので、いくら起きたくて目を開けていても、起きて座れないのです。このような監房において、約十分ないし十五分前に、一人で起きて、冷水浴をするのです。さらに、運動をしなければなりません。自分の体力を保持するためには運動をしなくてはなりません。それで、先生が考案した運動方法があります。相当に効果があるのです。」「どこかに座る時は、体を汚さないように必ず聖別して座り、立ち上がる時は、必ず聖別して立ち上がったり、そうしたのです。一人寝る時も、腕や足を広げて寝ることはしませんでした。上に神様がいらっしゃるのです。寝る場合にも、礼法があるのです。」 「ですから、「先生が寝ているのを見ることができなかった」という話を残しているのです。」

  25. 興南監獄の受難 「獄中生活において、イエス様が追われ、弟子たちが反対した立場を蕩減復帰しなければなりませんでした。先生はその監獄生活の中でも、霊界が協助して十二名の弟子たちを伝道したのであり、それによって新しい摂理が出発できるようになったのです。」 「先生の囚人番号は五九六番、「オ・グ・リュク」番だったのです。ある見方をすれば、「オグル」な(韓国語でぬれぎぬを着せられて無念だという意味)番号なのです。ある人の夢に先祖が現れて「何号室に五九六番なる方がいらっしゃるのだが、お前がもらったはったい粉を、少しも手を付けずに、その方に持っていって差し上げろ」と命令したのです。それでも「こんな荒唐無稽な夢が何だ」と言って、聞かないので、二度、三度言い、しまいには首を締めながら、「こいつ! やるか、やらないのか」と言ったので、「はい、いたします」というようになったのです。」「そのようになって、先生が話さずにつくった弟子が、数十名になりました。ですから話をして弟子をつくったならば、どんなに多くできたことでしょうか。」 朴正華氏による興南監獄図 「皆さんが知っているように、朴正華とか金元徳とかいう二十四名のメンバ、たちが、獄中で天命によってひそかに結束して、出発したのです。」

  26. 興南監獄出監 「もし韓国が統一教会を受け入れていたならば、韓国動乱が起きたでしょうか。起きなかったのです。三年間もあれば完全に国家基準を全部収拾したはずです。そして七年路程もすれば、世界に完全に道を築いたはずです。一九五〇年の六・二五動乱は、七年の過程で起こった戦いです。キリスト教が支持しないことにより、サタンが浸透して打つことができる基盤ができたためです。それにより二つの怨讐が生じたのです。それらが共産世界とキリスト教です。そのようにして共産世界が世界的に登場するのです。共産世界は韓国を足場にすることができなかったならば、あのような勢力をもてなかったことでしょう。その時、私の手の中で全部溶けたことでしょう。その時、マッカーサー将軍の言うとおりにしたならば(中国本土空襲の主張)、一九五二年六月までに終わったのです。解放以後、七年目に終わるのです。‥トルーマンが歴史的な失敗をしたのです。」 「一九五〇年八月一日、百機ほどのB-29機が総攻撃して、興南監獄を激しく爆撃しました。先生はこのようになることをあらかじめ知っていただけでなく、直径十二メートル以内は神様が守ってくださるということを知っていたので、近くの人々にみな先生の周囲にいるように言い聞かせました。先生はそのような中で、黙って瞑想をしていました。爆撃のようなことは考えませんでした。今後の理想世界について考えていました。‥ 」 「国軍は、元山を一番先に奪還し平壌には十月十九日に入城しました。興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。そうして、彼らが逃げたので先生が出てきたのです。」

  27. 興南監獄出監 「それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。十月十二日、刑期が七年以上である囚人、およそ七十名ほどを、三里ほどの山の中に引いて入っていき、全部殺してしまいました。その当時、先生の刑期は五年であったために、その次の、次の日が私が引っ張られていく番でした。ですから、神様はお忙しかったことでしょう。十三日、夜道を見渡すと既に事態が変わっていました。国連軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに十月十四日、共産軍が退いて、すぐ私たちは監獄から抜け出てきました。」 「私の場合、刑務所から出てこようとすれば、判事が許可してくれるのではありません。サタンがしてくれたのです。サタンの公認を受けてこなければならないのです。」 「先生は、先生がすることになっていたすべてのことを完遂したので、天使長国家(米国)と国連軍が北韓を攻撃して、先生を解放させました。それで先生は監獄を出てきました。」 「一九五〇年十月十四日です。先生の死刑執行予定日の前日、マッカーサー元帥の連合軍が、先生をそこから救出してくれたのです。それは、全く神様の恩寵でした。」 爆撃後の興南工場

  28. 興南監獄出監 「興南監獄は私に不幸をもたらしませんでした。統一教会の教理が広がる世界各地において、統一教会の原理のみ言を聞く若者の胸に、興南の監獄生活を通した先生の生涯路程が、新しい蘇生の爆発力を再発させることができる力をわき立たせる役事をしているのです。」 「先生は東海岸にある興南から西海岸地域の平壌まで歩いて帰ってきました。先生はかつて先生に従ったすべての人たちに、先生が帰ってきたということを知らせる人たちを送ったのですが、大部分の人は来ませんでした。‥」「‥私は待ちながら行く」というのです。絶対的愛をもって待つのです。そのような天がどんなに哀れで、どんなに悲惨かということを、私たちは知らなければなりません。どれほど耐えて、どれほど悲惨だったかというのです。」 「平壌に出てきて、四十日間いたのですが、そこから二十八里も行けば私の故郷です。二日もあれば故郷に行って来れました。しかし、故郷にいる父母や兄弟たちを訪ねていかず、み旨に対した人たちは、一人も残さず訪ねていきました。天を抱いて誓った人々に会うために、歩き回ったのです。」「その時、故郷に行けなかったのは、私が監獄に入る前に従っていた食口たちが、どこに散らばっているのか心配で、記憶している人々に会い、その人たちを収拾して、みなに伝えてから故郷に行くべきであると思ったからでした。それが、天に従っていく正道なのです。」

  29. 興南監獄出監 「先生が北韓の共産世界に入っていった時、既成教会の牧師八十余名がみな「統一教会の文なにがしを捕らえて殺そう」と、署名、捺印をしました。 ‥‥結局は、先生を殺そうと謀議した人々は、全部死んで、いなくなってしまったのです。共産党が、すべて殺したのです。殺そうとして監獄に押し込んだ人は生きて出て、生きようとして私を殺そうとした人々は死んだのです。」 「平壌の都から、みな避難して行ったのちに私が出発したのです。そうして、足が折れて自分で歩けなくなっている人を私が自転車に乗せて引いてきました。人民軍、八路軍(=国民革命軍)、中共軍を三里後ろにして、一番最後に出てきたのです。 」

  30. 「先生は東海岸にある興南から西海岸地域の平壌まで歩いて帰ってきました。かつて先生に従ったすべての人たちに、先生が帰ってきたということを知らせる人たちを送ったのですが、大部分の人は来ませんでした。‥」「先生は東海岸にある興南から西海岸地域の平壌まで歩いて帰ってきました。かつて先生に従ったすべての人たちに、先生が帰ってきたということを知らせる人たちを送ったのですが、大部分の人は来ませんでした。‥」 金元弼 ・朴正華氏と南へ 「平壌の都から、みな避難して行ったのちに私が出発したのです。そうして、足が折れて自分で歩けなくなっている人を私が自転車に乗せて引いてきました。人民軍、八路軍、中共軍を三里後ろにして、一番最後に出て来たのです。 」 「三十八度線に両足でまたいで立ち、泣きながら「南北を私の手で統一します」と誓いました」 (朴正華氏の証言) 12月12日、傾斜30度の大変な山道を、先生がハンドルを握り、大きな私が荷台に乗って、金青年があとを押して登っていきましたが何度も押し返されてしまいました。神様の大切な使命を負った先生であることを思うと、「どうか私をおいて二人で先に行ってください」と、ひざまずいて何度もお願いしたのです。しかし、先生は「私たちは死んでも一緒に死に、生きても一緒に生きるのだと牢獄の中で約束したではないか!」と叱りました。いつの間にか私は負ぶわれていて、「これから先、死ぬようなことも何度もあるだろうが、しかし我々は三位其台を造ってていくならば必ず神が助けてくださるから元気を出して行こう」と励ましてくださったのです。実際その後、避難民の群れに北の戦闘機の機銃掃射を受け隣の人がバタバタと倒れていくようなことが三度起こりました。‥‥ 「人類史の大真実」より

  31. 「私が悲しみを残して、私のために精誠を尽くした故郷にいる母と父と兄弟を後ろに残して来ながら、「この親不孝者が再び帰ってくる日を待っていてください、死なずに待っていてください」と念じ、北韓の地を離れてきたことを、私は忘れないでいるのです。」「私が悲しみを残して、私のために精誠を尽くした故郷にいる母と父と兄弟を後ろに残して来ながら、「この親不孝者が再び帰ってくる日を待っていてください、死なずに待っていてください」と念じ、北韓の地を離れてきたことを、私は忘れないでいるのです。」 「釜山凡一洞、そこに、それこそ穴を掘って家を建て、一人で第二の出発を準備しました。」「そこは共同墓地の近くで、石だらけの谷のほかには、何もありませんでした。そのような所に、先生は豚小屋のような仮設の建物を建てました。」 「壁と屋根を泥と岩で建てたとてもみすぼらしい住居でした。先生には家を建てるほどの土地が一坪もありませんでした。山すその急斜面に小屋のようなものを建てたのです。使い古しの箱で臨時の屋根を作りました。」 「私は、いくら軒下や穴ぐらの家にいたとしても、「私が神様に侍るのに、まだ精誠が足りない」と考えました。」 ポムネッコルの小屋

  32. 「凡一洞で、私は山に登って祈祷をしましたが、サタンののど首をつかんで、腹を刃物で刺して戦う、このような立場に立ち、霊的に多くの激闘をしました。「この戦いでお前たちが勝てない限り、お前たちはいつか、屈服する日が来るだろう」と言いながら戦ったのです。このようにして出発したのです。」 「近い同志から探し始めて遠い同志まで、また北韓から先生に従ってきた食口をはじめとして、先生と因縁をもった同志たちを探すのに、二年かかりました。」 釜山で最初に入教したのは姜賢実女伝道師であった。姜女史は、神学校学生であり、ある教会の伝道師でした。友人から「あのボンネッコルの谷へ伝道しようとして行ったら、ある青年が不思議な話をしていました。」と聞いて、約一週間祈って一九五二年五月十日訪ねて行く。その日は、文鮮明先生が約一年前から書いて来られた原理原本の執筆を終えられた日でもあった。 原理原本執筆に使われたランプと机

  33. 姜女史はその家を見て、『人が生まれ落ちてより一生このような家に住んで死んだとするならば、どれほどの恨みが残るだろうか。』と思った。姜女史はその家を見て、『人が生まれ落ちてより一生このような家に住んで死んだとするならば、どれほどの恨みが残るだろうか。』と思った。 ある日‥有無を言わさず「聖書を開けなさい」とおっしゃられた。それで姜伝道師がとにかく聖書を開けると今度は「そこの三十一節を読んでみなさい」とおっしゃる。それでその聖句を読むとそのみ言がすなわち、「信仰の少なき者よ、どうして疑うのか・・・・・・」という内容であった。‥こうしたことが一度や二度でなく‥繰り返された。「これを私がしていることと思うか。神が直接あなたを愛して導いていることを肝に銘じなさい。」と語り聞かせて下さる先生であった。 <金元弼氏の回顧談>私が眠っている時、夢うつつに泣いている声に驚いて起きてみると、先生が伏せてむせび泣いておられた。ある時には、讃美歌を続けて歌いながら、悲しくなって泣かれる光景を目にすることもあった。平壌で牧会しておられた時には、お祈りとみ言と迫害以外には何もなかったように、釜山で牧会をされた時も、お祈りとみ言と迫害を除くことができなかった。 ●1953年7月 姜賢實女史が大邱に開拓伝道へ。●1954年5月1日 統一教会創立

  34. 神を中心とする統一世界(実体的カナン) 再臨主を中心とする7年 実体的カナン復帰路程 天の計画 ・歴史的ワンチャンス・大戦後キリスト教諸国  が世界を制覇・45年10月国連創設・李承晩大統領・マッカー サー・米国宣教師 世界   (米・国連) 国家 (韓国) 韓国キリスト教 公生涯出発 光復節 洗礼ヨ ハネ・霊 的集団 1945 1952 1948.8 韓国独立 金牧師・イスラエル修道院 1954年5月 統一教会創立 釜山の小屋から再出発 荒野路程(40年)へ 実際の路程 許教祖・腹中教団 復活 24名伝道サタン屈服 興南監獄

  35. 引用文献 ・Webサイト 「真の御父母様の生涯路程」(光言社) 「聖地定州」(光言社) 「統一教会史 上巻」 統一教会Webサイト 歴史編纂委員会Webサイト 「人類史の大真実」Webサイト

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